2018年08月01日公開
2024年07月28日更新
江戸時代の当時の食事とは?庶民・農民料理の再現レシピを紹介!
今から2.300年ほど前の江戸時代には日本人はどんな食事をしていたのでしょうか?武家の食事は文献などに残っていますが、果たして庶民はどんなものを食べていたのでしょうか?今よりはすごく質素な食事だったと想像できます。お肉や乳製品はまだ食べる習慣はないですし、野菜も今とはだいぶ違うものだったことでしょう。美味しいものは少なかったかもしれませんが、健康には良いものが多かったようで、現在になって注目を浴びつつあります。そんな江戸時代の食事を再現するレシピを紹介します。
目次
江戸時代の食事が今注目されるわけ
現代社会では世界の成人の3人に1人が高血圧、10人に1人が糖尿病というデータがあります。そして、世界のどの地域でも肥満者は増え続けており、世界でなんと5億人が肥満状態にあるそうです。これは食生活習慣が原因と言われています。日本人が主に食べている和食は、低カロリーで多くの栄養素を含んでいるので、世界的にも注目され、和食ブームになっています。今や世界のどの国にいっても和食は食べられると言われています。
江戸時代、日本人は和食を食べて今よりももっと質素な生活を送っていました。このような食事で長生きできないのではないか、実際、江戸時代の平均寿命は50代と今より30歳近くも短いと思うでしょう。しかし、これは医療環境が現在ほど整っていなかった影響で、乳幼児の死亡率が非常に高かったせいで、成人は70代や80代まで生きられたといいます。
江戸時代の養生訓という書物によれば、長生きの秘訣は、腹八分目、食事は薄味にし、動物性たんぱくは控え、古く臭く、色や香りがあせたのは食べないという記載があります。またみそなどの大豆製品を食べることが推奨されており、これは肉や魚をほとんど食べなかった当時に大豆が重要なタンパク質になっていたからです。この養生訓の作者貝原益軒は子供の頃体が弱かったようですが、食養生に心掛け、85歳まで生きたそうです。
美味しいものが溢れる現在において、成人病が増加しています。この食生活に疑問を感じる人々が注目したのが江戸時代の質素な食事です。健康寿命を伸ばすために、私たちの食生活に取り入れられることがあるかもしれません。本当に豊かな暮らしに近づけられるよう、参考になれば嬉しいです。
江戸時代とは
江戸時代は戦国の世がおさまり、江戸幕府による統治で政治が安定的に行われていた時代です。戦もなく、庶民たちの生活も平和に豊かになってきて、特に江戸時代中期以降は商売も盛んになり、庶民文化が発展し、食に関しても豊かになっていきました。現代の食事の基礎がこの時代に出来上がりました。
江戸時代の身分制度
戦国時代には武士の半分くらいが戦のない時には農業をしていましたし、下剋上の世の中で、斎藤道三や豊臣秀吉は商人や貧農から大名になりました。しかし、江戸時代になり、安定的に政治が行われるようになったので、江戸幕府は士農工商という身分制度をしっかりと設け、厳しく統治しました。
武士は支配階級であり、特権階級ですので、名字を持ち、帯刀していました。しかし武士には上級のものと下級のものでは雲泥の差があり、下級武士は俸禄だけでは生活できず、町人に借金をしたり、内職をしたり、自家菜園を作ったりするものもいました。下級武士は庶民とそう変わらない生活をしていたようです。
農民は全体の80%以上を占めており、村役人、名主、組頭、百姓代といった役職を置き、しっかりと年貢を納められるように管理していました。職人や商人を合わせた町人層は全体の5%ほどしかいなかったようで、その中でも家持、店持のものから、地主という不動産を貸し出す富裕層から雇われ人のような層など、貧富の差があったようです。貧富の差、身分の差があった江戸時代ですが、そんな時代の食事について紹介していきます。
江戸時代の食事情
江戸時代の初期の食事は日に2回だったと言われています。現代のように3回になったのは元禄年間(1688~1704)、5代将軍綱吉の頃でした。これは灯りが生活に浸透したことにより、1日の活動時間が延びたことが理由のひとつと言われています。
江戸時代の庶民の食事は一汁一菜が基本とされていました。つまり、ご飯、味噌汁、お漬物です。それだけかと驚きますが、その頃の日本人は米をものすごく食べていたと言います。どれくらいなのかというと、なんと一人で日に5合も食べていたとのことです。今は朝晩2回の食事で米を食べたとしても1合くらいですので、その消費量が半端ないのは一目瞭然です。
特に江戸ではお米が多く流通していたので、相当貧乏でなければ精米した白米を食べていたので、この影響で脚気になる人が多くいたそうです。脚気はビタミンB1不足から起こる病気で、徳川将軍もこの病気で多くの人が命を落としています。米の精米して捨ててしまう胚芽部分にこのビタミンB1は多く含まれますので、玄米や雑穀を食べることで治ります。
江戸時代には、現在の日本料理に欠かせない醤油や砂糖などの調味料が広く普及し始めた時代でもありました。それによって、煮物などの料理はどんどん美味しくなり、おせんべいやおまんじゅうのようなお菓子も作られ、売られるようになっていきました。日本の料理の歴史において、江戸時代は大発展期になりました。
江戸時代の武家の食事
武家は身分格差によって収入も大きく違い、一口に食事は語れません。下級武士に関しては庶民とほとんど同じ食事内容だったようです。藩からもらえる収入ではとてもまとまな食事ができないので、自家菜園を作る者も多くいました。この野菜とお漬物がご飯のおかずになっていたようです。
将軍の食事はさぞ豪華な料理だったのだろうと想像されます。朝食は一の膳にごはん、汁物、刺身や酢の物などの向付(むこうづけ)、煮物、二の膳に吸い物、キスの塩焼きなどの焼き物といった内容です。昼食、夕食はこれに少し料理が増える程度だったそうです。
庶民に比べれば豪華な料理ですが、あまり美味しくなかったと言われています。というのも遠い厨房から運ばれてきて、途中に3回もの毒味があるので、将軍の口に入るまでに2時間以上は経過してしまっていたようです。また、食べられないものも多くあり、匂いのキツイもの(ネギやにんにくなど)やマグロのような脂の多い魚などは食べませんでした。逆にキスは魚偏に喜ぶと書くことから毎朝のように食べなくてはなりませんでした。
江戸時代の庶民の食事
お米をたくさん食べていた江戸時代の日本人ですが、当時お米を炊くのは朝1回だったようです。1日3回になってからの庶民の食事はだいたい以下のようなでした。朝食にあったかいご飯と味噌汁、昼食に冷やご飯と野菜もしくは魚などのおかず1品、夕食にお茶漬けと漬物といった感じです。タンパク質が少ない印象ですが、味噌汁に豆腐や納豆を入れてそれを補っていたようです。ただし、豆腐は一丁1000円くらいの高級品でした。
江戸後期の庶民の人気のおかずが文献に残っています。それはきんぴらごぼう、煮豆、切り干し大根の煮物、昆布と油揚げの煮物、ひじきの白和え、小松菜おひたしなど、今もなお和食の定番副菜として食卓によく登る料理です。魚介類のおかずはいわし目刺し、たたみいわし、アサリのむき身と切り干し大根の煮物などです。ただし、魚介類は月に3度くらいしか食べれなかったそうです。
お漬物にはたくあん、梅干し、ぬか味噌漬け、なすび漬け、らっきょうなど今でも食べているものばかりで、この頃の食事が日本食の基本になっていることは間違いないといった印象です。
江戸時代の農民の食事
江戸の庶民の間では白米を食べていたと紹介しましたが、農村地域に住む農民はお米を作ってもそのほとんどが年貢に徴収されてしまうので、白米だけで食べることはできませんでした。そんな農民が食べていたのがかて飯と言われるものです。このかて飯とはほんの少しのお米に稗などの雑穀や大根、里芋の茎を干したものやサツマイモなどの野菜を入れたものです。
江戸時代の農民の1日の食事を紹介します。江戸時代後半の信濃国のある村の食事記録が残っていました。それによると朝は大麦を煎って粉にした香煎と蕎麦粉を固めて焼いた蕎麦もち、昼は四分搗きの米に稗と大根と大根の葉を入れたかて飯、夕食には大根と粉団子の汁物ということです。やはり相当質素です。しかし、江戸に住む庶民に比べると食べる食物の品種が多く、美味しいものはないかもしれませんが、健康には良さそうです。
江戸時代の外食
江戸時代後期になると、外で仕事をする人が外食をするための店や屋台が増えてきました。屋台の蕎麦屋に始まり、天ぷら、鰻、寿司などが流行していきました。江戸の街に住む人々はそんなグルメを楽しむようになりました。町人文化が花開いた文化文政期(1804~1830年)には、鍋料理も登場しました。どじょう鍋やねぎま鍋、あんこう鍋はこの頃にできた料理です。
居酒屋もこの頃にできたお店ですが、元々は酒屋だった店がその場でも酒を飲ませるようになり、酒屋に居続けて飲むということから居酒屋という名前になったそうです。また、江戸の人々はなんにでもランキングするのが好きで、相撲の番付をはじめ、温泉番付、料理茶屋の見立て番付というものを作っていました。今でいう都内グルメランキングのようなものですね。
江戸時代の庶民の食事の再現レシピ
江戸時代には「豆腐百珍」という豆腐のレシピが100種類載ったものや「万宝料理秘密箱」という卵のさまざまな料理法が紹介されているものがベストセラーになりました。これを2016年11月24日の和食の日に現代語に翻訳し、使う材料や調味料も、現代でも手に入りやすいものに改定し、再現レシピ化しました。それを元に江戸時代の料理を一部紹介します。
再現レシピ1:納豆汁
庶民から将軍まで毎日食べていた料理が味噌汁です。中でも人気があった具は納豆でした。理由は味噌と納豆の両方で豆を摂取できるの、不足がちなタンパク質が得られるからです。作り方は、小松菜はざく切り、豆腐はさいの目に切ります。納豆を入れたすり鉢に出汁を入れながら納豆を荒くすり潰します。それを鍋に移し、味噌を多めに溶き火にかけ、沸騰しない程度で小松菜と豆腐を入れ、一煮立ちすれば出来上がりです。
再現レシピ2:石焼豆腐
「豆腐百珍」の83番目に載っているレシピです。ただ焼くだけのシンプルなものですが、現代でも人気のある豆腐料理で、今風に言うと豆腐ステーキです。作り方は木綿豆腐の水気を切り、食べやすい大きさに切ります。ごま油をしいたフライパンでじっくりと両面を焼きます。大根おろしを乗せて醤油をかけて食べてください。
再現レシピ3:花卵
卵を使ったアレンジレシピです。こんな発想がすでに江戸時代にあったとは、インスタ映えの現代に通じるお料理です。お弁当に入れれば見栄えもいいです。作り方は、まずお湯を沸かしてゆで卵を作ります。しっかり茹でたら卵の殻をむきます。殻をむいた卵を熱湯にしばらくつけます。卵を湯から取り出し、お箸を使って形をつけ、箸の上からゴムでくくります。そのままよく冷ました後箸を外し、食紅で色をつけます。
色づいたら取り出し、横半分に切れば可愛らしいお花の形の卵の出来上がりです。お花見弁当などにぴったりです。
再現レシピ4:源氏卵
蓮根の周りを卵でぐるっと巻いた源氏卵という料理です。源氏車のように見えるからでしょうか。まずは蓮根の周りを巻けるくらいの大きさの薄焼き卵を厚さ3ミリで作ります。次に蓮根の皮を剥きます。その蓮根を湯を沸かした鍋で茹でます。火が通ったら、水を切ります。薄焼卵に生卵の白身を塗り、茶こしを使って小麦粉をまんべんなく振りかけます。その薄焼卵の上に蓮根を乗せてくるくると巻きます。
巻いた薄焼卵の端に卵の白身を塗り、卵がバラけないように留めます。それを立てて蓮根の穴に生卵の白身を流し込みます。これをオーブンで焼くか、蒸し器で蒸します。白身が固まったら完成です。冷えたら輪切りにしてください。
再現レシピ5:冷卵羊羹
卵を使ったスッキリ甘さのスイーツです。プリンのような感じですが、牛乳は使われていません。作り方はまず、寒天を水につけて、ふやかします。生卵をボールに割ってよく溶きます。溶いた生卵を布でこします。黒砂糖と酒を入れ、よく混ぜます。これを卵に入れて、再びこします。鍋にふやかした寒天と水を入れて煮とかします。これを布などでこし、再び鍋に入れて熱します。熱した寒天の中に、先ほどの卵液を少しずつ入れます。
全て入れ終えたら、水でといた片栗粉を鍋に入れてさっと混ぜ合わせます。鍋を火からあげ、中身をバットなどの容器に入れます。それを冷蔵庫で、2時間ほど冷やせば出来上がりです。
再現レシピ6:高野豆腐のオランダ煮
長崎には鎖国の江戸時代に唯一オランダと外交するための港がありました。その長崎に伝わるレシピです。高野豆腐を水で戻して水切りし、4等分にカットして、片栗粉をまぶします。中温に熱した揚げ油に、この高野豆腐を入れこんがり揚げて、キッチンペーパーの上に取り、油を切ります。だし汁、醤油、砂糖、みりんをフライパン(鍋)に入れて加熱し、沸騰したら、先ほどの高野豆腐を入れて絡めながら煮込みます。
お皿に盛り付け、刻み生姜をトッピングしたら、出来上がりです。何がオランダなのかはよくわかりませんが、高野豆腐にたれが絡んでご飯が進みます。高野豆腐はプルプルの食感でたまりません。
再現レシピ7:奈良茶飯
奈良茶飯とは、元々奈良の東大寺や興福寺の修行僧たちが食べていたというものです。この料理は前日から下ごしらえが必要です。皮付きの干し栗と、小豆をそれぞれ一晩水に浸けておきます。粟もよく水洗いして一晩水に浸けておきます。そして調理当日は、先ず米を洗いザルに上げておきます。大豆は炒って水につけ、薄皮を剥きます。次に一晩中浸けた栗と、小豆を八分どおり煮ます。
米ともち米少々、下ごしらえしたその他の具在を全てお釜に入れ、そこに塩、だし汁、酒、煎茶を入れます。全ての材料を入れたらよくかき混ぜて炊き上げます。炊きあったら10分ほど蒸らせば出来上がりです。これに、奈良漬けと豆腐のお味噌汁を添えて出せば、江戸の街で大人気の奈良茶飯』になります。
再現レシピ8:当座鰤煎炙
八代将軍から九代将軍に変わった頃の料理本「黒白糖味集」に載っているレシピです。当座鰤煎炙の「煎炙」とは、平安後期の今昔物語にも書かれている古い調理法の1つで、魚を直火で焼くのではなく、鍋で焼く調理法のことを言います。作り方はまず、鰤は、皮を傷つけないようにして鱗だけを包丁で落とします。そして頭を落とし、はらわたを取り除き、三枚におろしておきます。それを1.5センチほどの厚さの切り身にします。
鍋にごま油をしき、表になる方を下にして鰤を入れ、葱も加えて焼きます。葱は火が通ったら取り出し、魚はひっくり返して裏を焼きます。魚の表面に焼き目がついたら酒を入れ、少しずつ濃口醤油を足しながら砂糖をつまみ入れ煮立てます。煮詰まってきたら葱を鍋に戻し、煮汁をからませながら、煮汁がなくなる直前に火からおろせば出来上がりです。
再現レシピ9:甘酒はやづくり
江戸時代は夏場に庶民の間でよく飲まれていた甘酒ですが、これは料理早指南(亨和元年)に載っている甘酒はやつくりというレシピです。このレシピでは、普通なら一定の温度を保った上で15時間はかかるという甘酒づくりを、1時間ほどでつくれてしまうという時短レシピです。作り方は道明寺干し飯をお湯で軽く洗い、水分を含み少しふっくらしたところで、ザルに上げておきます。
次にすり鉢に水と米麹を入れ、よくすり合わせます。これを濾して鍋に入れます。これにザルに上げておいた道明寺干し飯を混ぜ全体に馴染ませます。鍋を火にかけますが、この際、温度を60度前後に保ってください。30分から1時間煮れば出来上がりです。
再現レシピ10:金ぷら・銀ぷら
江戸時代、搾油技術が向上し油が安く流通することで生まれた天ぷら料理です。主に屋台の味として親しまれましたが、文化文政の頃になると一流料亭でも天ぷらを出すようになりました。人気を呼んだ高級天ぷらが金ぷらと銀ぷらです。衣に黄身を使うか、卵白を使うかの違いがあるのですが、何ともおめでたい名前です。
まずはタネの下準備です。海老の場合は背ワタを取り皮を剥きます。腹に浅く包丁を入れておくと、揚げた時に真っ直ぐになります。めごちやキスなどの小魚は開きに、イカは一口大に切ておきます。金ぷらの衣は卵黄だけを水で解き、小麦粉と合わせます。揚げる時はごま油を使うと、綺麗な黄金色に仕上がります。銀ぷらの衣は卵白を水で解き、小麦粉と合わせます。白金色に仕上げるためには、菜種油を使います。
天つゆは醤油と出汁を1:1で混ぜ合わせ、お好みで大根おろしを入れれば天つゆの出来上がりです。これに天ぷらをつけて食べてください。
まとめ:江戸時代の食事は
江戸時代の食事について紹介してきました。江戸時代は士農工商という身分制度や貧富の差、農村と江戸の街では食べているものが随分違っていました。おかずに関しては下級武士から一般庶民までがお味噌汁やお漬物といった質素なものでしたが、江戸の街では庶民に到るまで、白米をたくさん食べていました。しかしそのせいで、脚気になる人も多かったと言います。
一方、農村部に住むの農民たちは白米を食べられることはほとんどなく、大根や芋のツル、雑穀の混ざったご飯を食べていました。おかずには味噌汁や麦の粉を混ぜてお団子にしたものを食べていました。農民たちには脚気になるものはなく、この病を江戸患いと言われていたくらいです。農村には美味しいものは少なかったようですが、摂取する食物の数も多く、栄養的には豊かだったのかもしれません。
江戸後期になると江戸の街では外食できる屋台や店も多く現れました。そば、寿司、天ぷらなどの屋台から始まり、高級料亭や居酒屋もできました。また、醤油や砂糖などの調味料が普及するようになり、料理のメニューも大幅に広がり、お煎餅やおまんじゅうといったお菓子を売る店も出てきました。お腹を満たすだけの食が生きる楽しみの1つになり、日本の食文化は江戸時代に花開き、現在の和食の基礎が成立した時代と言えます。
肥満や高血圧などの成人病が増加している昨今、食生活の見直しを迫られていますが、江戸時代の食事は健康的にも低カロリーで体に良いという話もあり、これを取り入れようという動きもあります。その一つが江戸時代の料理本が現代の再現レシピになりました。これら再現レシピを活用したり、先人の知恵をうまく取り入れ、本当に豊かな健康長寿な生き方を目指していきたいですね。